わが町の神社・寺院
| ■弥刀神社 | ■神劔(みつるぎ)神社 | ■長瀬神社 | ■御劔(みつるぎ)神社 | ●若江鏡神社 |
| ●吉田春日神社 | ●津原神社 | ●鴨高田神社 | ●瓢箪山稲荷神社 |
| ●長栄寺 | ●往生院六萬寺 |
■弥刀神社
(東大阪市近江堂)
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| 弥刀神社の石畳 | 弥刀神社本殿 |
| ●弥刀神社の石鳥居のわきの標石をみると、「式内社弥刀神社」となっている。 式内社というのは、平安時代の延長5年(927)に完成した延喜式神名帳に記載されている神社のことである。 弥刀神社はその神名帳に記載されている。 したがって、弥刀神社は延喜式の完成した1050年以上も前に、確実に存在していた古い神社なのである。 弥刀神社の祭神は、由緒記によると、速秋津日子神(はやあきつひこ)と速秋津比売神(はやあきつひめ)となっている。 両祭神は水戸の神である。 この地が、古くは旧大和川の川べりにあったこと、河内の入り江の近くにあったことから、両祭神が祭られるようになった。 弥刀神社の社名は、水戸(みと)の神、すなわち”水戸(みなと)”から付けられていると考えられている。 また神社の社名について別説がある。 桜井敏雄氏の『弥刀神社八坂神社修理報告書』によれば、神名帳の最も古い写本には「弥刀神社はイヤトノとふりがなが あり、平安時代はミトと呼ばれていなかった。 イヤは、弥栄(いやさか)えるであり、トは刀である。 この社は、古くは、刀を奉斎する神社であったという見解を述べられている。 |
■神劔(みつるぎ)神社
(東大阪市小若江)
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| 神劔神社の石鳥居 | 神劔神社の本殿 |
| ●神劔神社の境内に入ると”力石”と刻まれた一抱えほどある石が目につく。 大正から昭和の初め頃、村の若者たちがこの石で力比べをしたということである。 布施市編さん室刊『布施の民俗』には、「近江堂の制札場に28貫(105s)と32貫(120s)の 大きさの力石があった。 晩方になると、若い連中が、これを持ち上げて力比べをしたが、石をカタげたり、あるいはヒザトリに する競争であった。 ヒザトリとは、石を持ち上げて膝に乗せることでこれよりカタげる方が、もちろん力が要る。 32貫の石をカタげる者はめったにないが、28貫をヒザトリできない者は、馬鹿にされた。 「28貫をヒザトリできる者なら5斗俵を担ぎえた」とある。 |
■長瀬神社
(東大阪市衣摺)
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| 長瀬神社の石鳥居 | 長瀬神社の本殿 |
| ●長瀬神社の創祀は、明治40年にさかのぼる。 同年11月18日、内務省の認可があり、長瀬村になった北蛇草・南蛇草・柏田・衣摺・大蓮・吉松・金岡の 旧7ケ村にある8ケ所の神社の遷座の準備が行われ、大正元年12月28日、合祀された。 遷座の地は、旧大和川(長瀬川)の堤、南山と呼ばれていた現在の場所である。 合祀される前の神社を列記すると次のとおりである。 ○式内社・村社・波牟許曽(はむこそ)神社 ○村社・蛇斬(じゃさき)神社 ○村社・天神社(旧北蛇草村) ○村社・白山神社(旧柏田村) ○無格社・天神社(旧柏田村) ○村社・衣摺神社 ○村社・白山神社(旧大蓮村) ○村社・産土(うぶすな)神社 ●郷土に長く伝えられてきた氏神信仰に一つの大きな旋風を巻き起こしたのは、明治元年3月に出された 明治政府の神仏分離の布達である。 これによって、神社の属していた寺院が取り払われたり、分離して独立させられたりした。 仏像・仏具などが焼かれたりもした。 また、仏教語をもって神号とする牛頭(ごず)天王・権現(ごんげん)の称のある神社は改称させられたりもした。 ●明治22年2月1日、北蛇草村・南蛇草村・柏田村・衣摺村・大蓮村・吉松新田・金岡新田の7ケ村が合併して 長瀬村が誕生した。 長瀬村は、先に記した8社もある神社を村費によって維持していくことが困難であったために、全国的な合祀の 動きとともに、明治39年の明治政府の布達に従って合祀が行われ、長瀬神社が大正元年12月、創祀され たのである。 |
■御劔(みつるぎ)神社
(東大阪市友井)
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| 御劔神社の石鳥居 | 御劔神社の本殿 |
| ●当神社由緒記によれば、祭神は素戔鳴尊と菅原道真であり、草創は950年前とある。 本殿には、正面扉に素戔鳴尊の象徴である松、側壁面に菅原道真の象徴である梅が描かれており、 主神が素戔鳴尊であることを示している。 さらに、明治2年の村明細帳には宮壱所氏神、牛頭天王とあり、明治2年には、牛頭天王と称していた ことがわかる。 明治元年3月、明治政府の神仏分離の布達があり、牛頭天王・熊野権現・白山権現などの神号は、 それぞれ仏教語からきているというので、その称号を廃して、別の神社名に改称されることになった。 したがって、本社はそのとき、御劔神社に改称されたと考えられる。 明治42年、内務省令により、経済的に維持困難な神社は統合されることになり、御劔神社も同年1月18日、 若江の鏡神社に他村の神社とともに合祀された。 しかし、戦後の昭和21年、宗教法人令が制定されたのを機に、再び、もとの地に遷座した。 |
(東大阪市若江南町)
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| ●若江鏡神社(わかえのかがみ)● 【由緒】 当社は、東大阪市若江南町2丁目3番9号に鎮座し、境内地は約二千坪を有します。 延喜式内の古社でありますが、創建年代は不詳です。 しかし、「文徳実録」(六国史)の斉衡元年(854年)卯朔丙辰に『河内之国大雷火明之神従五位下』と 記されていることからも、少なくとも1200年近くはこの地に鎮座している、相当な古社であるといえます。 神社及び数多くの宝物は、大阪夏の陣で兵火にあい焼失しました。 若江城城主畠山政長より三好左京大夫源義継までの代々の城主の崇敬するところとなり、神饌田の 寄進までされたり、寛永年間は公儀の費用を持って修復がなされていたようです。 明治5年に郷社に列し、同41年1月神饌幣帛料供進の指定にもなりました。 当社の氏子地域は、現在東大阪市若江南町・東町・本町・北町・西新町となっていますが、 明治の中頃までは、若江南・若江北・西郡・友井・近江堂・上小阪・下小阪・宝持・東岩田・ 西岩田・菱江新田等、十二地区の郷社でした。 (若江鏡神社のホームページより抜粋) | |
●吉田春日神社
(東大阪市吉田)
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| ●吉田春日神社 駅北側の花園商店街を抜けてから、旧村の曲がりくねった細い道を少し歩いた 所に吉田春日神社があります。 【御祭神】 第一殿 天児屋根大神 第二殿 比売大神 第三殿 武甕槌大神 第四殿 経津主大神 【御由緒】 春日神社は「春日さん」の御分社にて、元春日と称される枚岡神社、奈良の春日大社の 御祭神とご同神です。 古くは「松の宮」と称され、当地の先祖を神として祀った氏神社が、年月の経過と共に、 宮居としての社になったものと伝えられています。春日明神を氏神として勧請した年代は不詳です。 明治五年神社整理統合令により、枚岡神社に合祀され、社殿のみが残されることになりましたが、 村民の強い願いと肝入りにより、明治十二年氏神復旧願いが認められ、枚岡より復帰しました。 昭和五十八年社殿を改築し、周囲の池も環境整備のため、平成四年全面的に埋め立てられ、 境内地として活用、現在に至っています。 【神賑行事】 毎年十月十五、十六日の秋祭りの二日間は、氏子中の各地区よりだんじり、 太鼓台が村中を練り歩き、本祭りの十六日には、夕方より宮入り行事が行われます。 【献灯】 古い時代の農作は天水が唯一の頼みであり、干魃のたびに雨乞いの祈願が行われ、 願いが叶って降雨があると、村人等は喜び勇んで手に手に提灯をかざして神社に集まり、 神前に感謝の気持ちを捧げたのが献灯のはじまりです。 天保時代からは、雨乞いの時ばかりでなく、祭礼時に行われるようになり、これに用いる用具も、 大きさが一丈余りもある枕灯が用いられるようになりました。 【宮入】 献灯行事に続いて行われるのが、だんじり、太鼓台の宮入り行事です。 市場を含む六ヶ村が順番に境内入口より拝殿までの数十メートルを練りながら何回も往復し、 勇姿を競い奉納します。 (市場太鼓台保存会ホームページより抜粋) | |
●津原神社
(東大阪市花園東町)
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| ●津原神社 (東大阪市花園東町) 駅の南側へ徒歩10分程の所に津原神社 があります。 古代の物部氏ともゆかりの深い神社だそうです。 【祭神】 天児屋根命、天玉櫛彦之命、天櫛玉命 古代河内湖への旧大和川(玉串川)の船着き場付近に鎮座。市場が立ち、市場村であった。 伝説によると旧大和川上流より櫛の入った箱が流れ着きここに止ったので神社を建て、 玉串の地名が起ったと云われています。 津原の池として、現在まで保存され、御神体とされている。 御神体の津原の池には無数の亀がいるという。 花園地域の惣社で玉櫛明神とも呼ばれた。また延喜式内社である。 | |
●鴨高田神杜
(東大阪市高井田)
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| ●鴨高田神杜 (東大阪市高井田) 長栄寺のすぐ隣に『鴨高田神杜』があります。 幹の太い木々も多く、緑豊かな広々とした境内には、思わず姿勢を正したくなるような 空気が漂っているように感じました。 【祭神】 速須佐之男命(素盞嗚尊) 大鴨積命(大賀茂都美命) 『新撰姓氏録』大和国神別に賀茂朝臣 大神朝新同祖。大国主神之後也。 大田田禰古命孫大賀茂都美 一名大賀茂足尼。奉斎賀茂神社也 神功皇后(息長足姫尊) 應神天皇(品陀別命) 当社はその創建が遠く白鳳二年(673年)と伝えられる延喜式内社であり、 渋川郡六座の筆頭に位置する官幣小社であった。 この付近が戦場となった大阪夏の陣元和元年(1615年)には兵火にかかり社殿ことごとく 烏有に帰したが後数年を経て再建されたそうです。 なお拝殿西側にある樟は樹齢約一千年といわれ今は幹が少し残る程度であるが通稱お駒樟と 呼ばれ昔お駒狐が棲息していたとも、お駒なる女性がこの木に呪呪詛の釘を打ち込み願いが 叶えられたとも伝えられる。 | |
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| 駅前の南側商店街を少し行くと東側に鳥居があり、その向こうに赤い鳥居の 『瓢箪山稲荷神社』があります。 【祭神】 保食狼、素盞嗚尊 日本三稲荷の一、辻占総本社。 天正11年(1583)豊臣秀吉が大阪城築城 にあたり巽の方三里の地に 鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したとあります。 『大阪府全志』によれば、「以前は小なる叢祠にて、祠と街道との中間南側に 一茅屋ありて、老翁の辻占を判じたるに過さりしが、維新の後大阪の一商人 この辻占によりて営業上大いに利し祠を今の如く改築せしにより少しく大きくなる」 と記されている。 ●辻占 1.神前に願い事をよく祈る。 2.おみくじをひく。番号がある。 3.東参道入り口の占場で気を鎮めて占場石を中心に正面を向く。 通行人の姿、年齢、持ち物、言葉、葉来物、連れの有無等を詳しく観察する。 おみくじの番号1番 最初の人(連れ) おみくじの番号2番 二人目の人(連れ) おみくじの番号3番 三人目の人(連れ) 左右どちらから来てもいい。 4.社務所に戻りことの次第を申し出る。 |
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