若江岩田駅周辺ガイド(近鉄奈良線)


駅の踏み切りを挟んで南北に長い地域商店街が続いています。
周辺には大型のスーパーやショッピングセンターがあり、
駅前にはあらたに再開発ビル「希来里」(きらり)が完成し、
その町並みを変えつつありますが、商店街から一歩横道に入ると
旧村の面影を残した古い旧家や史跡が多く残っていて、
新旧が入り混じった不思議な魅力のある町です。


若江岩田駅踏切 踏み切りから観た南側の
岩田中央商店街


駅北側にはあらたに
再開発ビル「希来里」(きらり)が完成。
駅前もロータリーとして整備されました。


駅南側の商店街です。 商店街の中程にあるスーパー・コノミヤ


●若江鏡神社(わかえのかがみ)●
 
 駅南側の商店街を抜けて真っ直ぐに進むと若江鏡神社の前に出ます。

【由緒】  
当社は、東大阪市若江南町2丁目3番9号に鎮座し、境内地は約二千坪を有します。
延喜式内の古社でありますが、創建年代は不詳です。
しかし、「文徳実録」(六国史)の斉衡元年(854年)卯朔丙辰に『河内之国大雷火明之神従五位下』と
記されていることからも、少なくとも1200年近くはこの地に鎮座している、相当な古社であるといえます。
神社及び数多くの宝物は、大阪夏の陣で兵火にあい焼失しました。

若江城城主畠山政長より三好左京大夫源義継までの代々の城主の崇敬するところとなり、神饌田の
寄進までされたり、寛永年間は公儀の費用を持って修復がなされていたようです。
明治5年に郷社に列し、同41年1月神饌幣帛料供進の指定にもなりました。

当社の氏子地域は、現在東大阪市若江南町・東町・本町・北町・西新町となっていますが、
明治の中頃までは、若江南・若江北・西郡・友井・近江堂・上小阪・下小阪・宝持・東岩田・
西岩田・菱江新田等、十二地区の郷社でした。

若江鏡神社のホームページより抜粋)


若江城址の石碑 現在の若江公民館。
このあたり一帯を中心にして
若江城が存在していたそうです。


●若江城●

 所在地:東大阪市若江北町   城の種類 :平城   築城年:南北朝後期   

 この若江の地に戦国時代にお城があったのをご存知ですか?
 現在の若江公民館がある一帯を中心にして城が存在していたそうです。

 若江城は、河内守護職にあった畠山基国により北朝方の拠点として、永徳2(1382)年に
築城されたそうです。
 戦国時代になると若江城の城主も畠山氏から細川氏、三好氏とめまぐるしく入れ替わったようです。
 永禄11(1568)年の織田信長畿内平定後は、三好義継が若江城に入城、高屋城の畠山高政と
共に河内を守護することになりました。
 三好義継はやがて信長と敵対し、足利義昭を保護していました。
 しかし義昭が堺にいた際、佐久間盛信により攻撃され家臣の裏切りにあい切腹、落城しました。
 その後、若江城は、石山本願寺攻撃の拠点となるが、両者の和睦後に廃城となりました。

 戦国時代には、歴史の表舞台に踊り出て数々の人間ドラマの舞台になった城も、今や若江城址の
石碑と説明板が、その存在をわずかに伝えるのみです。


●木村 重成の墓と説明板

 大阪夏の陣の時、若江の地は徳川・豊臣の両軍が激しく激突する戦場になりました。
 現、河内ゴルフ場前を八尾方面に進み、第2寝屋川を越えてすぐに左折したところに公園があります。
 公園内には豊臣方の武将 木村重成の墓があります。

 大阪冬の陣の和睦成立後、徳川方は直ちに二の丸・三の丸を取り壊し外堀を埋めただけでなく、約束に無い
内堀を埋める工事も強行しました。工事は見る間に進行し、大阪城は裸同然の状態となりました。
 豊臣方は、このことから再び臨戦態勢をとりました。
 元和元年(1615)四月、河内の村々は再び戦争が始まるということで恐怖に落ち入り、はやばやと避難の列が
道にあふれました。
 家康・秀忠の軍は、東高野街道を下り花岡山(八尾市大竹)を家康の宿陣としました。
 堀を埋められ本丸だけのみすぼらしい姿となった大阪城の豊臣方は、活路を野戦に求め大阪城から出て応戦
することとなった。
 弱冠22歳の木村重成は4700の軍兵を率いて若江におもむいた。
 若江の玉串川堤の上でも、木村重成の軍兵と井伊直孝の軍兵が入り混じって激しく争いました。
 重成の隊はよく奮闘し、徳川方をおびやかしたが戦いが混戦となるうちに、馬上の重成は槍で突き落とされ
2〜3人の敵に首を討ち取られました。

著者 荻田 昭次 氏(郷土をたずねて)参考


街の地名板にも名前が残されていました。





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