わが街散策
●長瀬川は、昔の大和川の本流だった!
東大阪市の菱屋西から吉松・金岡にかけての土地は、現在の長瀬川をはさんで幅が200〜300メートル、
樟蔭学園・小阪付近では、幅700メートルもある巨大な川の跡であり、昔の大和川の本流でした。
今から280年ほど前、この川は流れを国分付近から西方へ替える工事(大和川付け替え工事)をしたため、
ほとんど流れなくなりました。
その後、一部の水を用水のために流し、現在の幅の狭い長瀬川となっています。
付け替え工事によってできた広い河原は、新田として開発され、今では、住宅が立ち並んでいます。
古大和川の敷地は天井川といって、何百年もの長い間に、上流から流されてきた土砂が堆積して、川底が
両岸の土地より高くなっています。
したがって現在、その土地は、5〜6メートルもの川砂が堆積した層になっています。
天井川の成因は、上流から流されてきた土砂によって川底が高くなると、両岸の村々が、川の氾濫を恐れて
堤防を高く築く、さらに年月がたち、川底が高くなると、また堤防を築く、こうして川底が両岸の水田より高くなる
と言うことです。
川は下流に向かって右側を右岸、左側を左岸といっています。
●長瀬北小学校の敷地であるもと吉松と、長瀬町や柏田とを比べると、もと吉松の土地が一段高く
なっているのが解ります。
長瀬北小学校の西側の道路が、旧堤防のラインの跡です。
●大和川付け替え工事
現在、大和川は、国分付近から西方へ流れ、堺市北方を経て大阪湾に注いでいます。
しかし、今から280年ほど前までは、国分付近から大阪平野を北流して寝屋川に合流し、西流して
上町台地の北方で淀川と合流し、さらに西流して大阪湾に注いでいました。
大阪平野を流れる川は、玉串川・長瀬川・平野川の三川に分流していたが、長瀬川は、その本流でした。
玉串川は、吉田川と菱江川に分流し、吉田川は、恩智川とともに深野・新開の両池に注いでいました。
長年にわたる上流からの土砂の堆積のため、これらの諸川の河床、両池の池床は高くなっていて、長雨が
続くと、たちまち増水して堤防が決壊、川は氾濫しました。
田畑の浸水、家屋・家財の流失、そのうえ人的被害は計り知れないものがありました。
こうした洪水の被害は、年を追って激しさを増し、江戸初期の60年間に、12回の大洪水の記録を残して
います。
そこで、今米村(現東大阪市今米)の庄屋・久兵衛は、河内各地の庄屋とはかって、大和川の流れを国分
付近からまっすぐ西へ転じ、大阪湾に注ぐ「大和川付け替え工事」の請願運動を起こしたのです。
久兵衛のこの念願は、幕府に容易に受け付けられず、新川筋に当たる村々からも、自分たちの多くの田畑・
家屋がつぶされるということで、強硬な反対運動が起こりました。
久兵衛は明暦2年(1656)に病死し、長男太兵衛、三男甚兵衛が父の遺志を引き継いで、元禄13年(1700)
に太兵衛が病死したあとは、甚兵衛が江戸へ再三請願を繰り返したのです。
こうして、親子2代、数十年にわたる請願運動の結果、大阪東町奉行所の代官万年長十郎の力強い応援が
あって、元禄16年(1703)10月28日、幕府から「新大和川付け替えの命」が出されたのです。
普請奉行に大久保大隈守忠香・伏見主水為信・万年長十郎がなり、助役に姫路城主本多忠国がなって、翌年の
宝永元年(1704)2月15日に着工し、同年10月13日、新川の工事が完成した。
わずか8ケ月のスピード工事であった。
完成のかげに、河内の村々の農民たちによる力強い働きがあったのは当然である。
新川は、全長4里半(約18キロ)、幅100間(約180メートル)。
人足は延べ240万人、工費は約7万両を費やしたといわれている。
付け替え工事で新川となって潰れた土地は約274町歩、これにたいして旧川筋にできた新田は1063町歩、
差し引き789町歩(1万ヘクタール)の増地となった。
そのうえ、頻繁に起こっていた洪水の危険は、ほとんど解消された。
大和川付け替え工事の功績は偉大であった。
著者 荻田 昭次 氏(郷土をたずねて)参考
2001/01/06up